浮気、不倫、愛憎劇。こうしたワードが並ぶと、多くの人は「週刊誌的」なスキャンダルやテレビドラマの一場面を思い浮かべるかもしれません。そして、そこに「女探偵」が登場したら、物語は一層ミステリアスに、そしてスリリングに展開することでしょう。

だが、柚木麻子さんの小説『BUTTER』は、そうした表面的な刺激とは一線を画します。物語の中心にあるのは、実際に起こった「交際相手の男性を次々に殺害し、その財産を奪った」とされる女性をモデルにした、架空の殺人事件。作中の被疑者・梶井真奈は、「料理上手な女」として男性たちを惹きつけ、やがて死へと導いた容疑をかけられています。

 

「浮気」と「探偵」が暴く、人間の欲望と孤独──柚木麻子『BUTTER』に見る真実の輪郭

 

 

探偵的視点を持つ女性記者

 

本作において、真奈を追うのは探偵ではありません。週刊誌の女性記者・里佳です。彼女は事件の取材を通して、真奈という人物に肉薄していきます。言うなれば、彼女自身が探偵的な役割を担っているのです。真奈の過去、人間関係、料理の意味、そして「女とは」「愛とは」といった根源的な問いに向き合いながら、彼女の言葉の裏にある“真実”を探ろうとする里佳の姿は、まさに現代の「心理探偵」です。

浮気や不倫といった恋愛の“裏切り”は、多くの場合、感情の爆発や欲望の暴走によって説明されがちです。しかし『BUTTER』では、真奈がなぜ男たちと関係を持ち、なぜ殺したとされるのかを、表層的な「性の駆け引き」だけで終わらせません。むしろ、彼女の中にある孤独、抑圧、そして“女”としての役割を押しつけられてきた社会的背景に、光を当てていくのです。

 

浮気の裏にある「物語」の欲望

 

探偵ものや不倫小説において、読者が無意識に求めているのは、「なぜ人は嘘をつくのか」「なぜ裏切るのか」という問いへの答えかもしれません。浮気という行為は、道徳的には非難されるものの、そこには確かに「欲望」が存在します。そしてその欲望は、しばしば物語の中心に据えられます。

『BUTTER』の真奈は、自らの魅力や料理の腕を駆使しながら、男性たちを惹きつけ、彼らに「家庭的な理想の女」を演じて見せます。だがその仮面の裏には、他者から求められる「理想像」と、自己の本質とのギャップに苦しむ彼女の姿があります。浮気や裏切りとは、時にそうした「演じること」の延長線上にある行為とも言えるのではないでしょうか。

つまり、『BUTTER』は浮気の裏にある「物語」を暴いていく小説なのです。

 

探偵とは、誰よりも「信じたい」人間である

 

物語が進むにつれ、記者・里佳は真奈への取材を通して、ただの観察者やジャーナリストではいられなくなります。彼女は、真奈の語る「真実」に耳を傾け、そこに何かしらの「信じられるもの」を見出そうとする──まるで、殺人事件の謎を解き明かす名探偵のように。

探偵とは、冷静沈着に真実を追う存在でありながら、時に誰よりも「信じたい」と願う人間でもあります。それは愛かもしれないし、正義かもしれないし、人間の善性かもしれない。『BUTTER』の里佳もまた、真奈の言葉の中に、自分が生きる社会の矛盾や、自分自身の葛藤と向き合うための「手がかり」を求めていたように思えます。

 

「浮気」や「探偵」は、現代の鏡である

 

浮気という行為は、単なる道徳の逸脱ではなく、人間の深い心理と社会の構造を反映する「鏡」でもあります。そして探偵という存在も、単なる事件解決者ではなく、その鏡の中に映る歪んだ現実を、少しでも正しく見ようとする「観察者」であるのです。

『BUTTER』が描いたのは、まさにその二つの視点──裏切りと観察、加害と解明──の交錯する場所でした。浮気という行為の裏側にある、個人の孤独、社会的役割への苦しみ、そして「本当の自分」への渇望。そうした要素が絡み合うことで、読者は事件の真相よりも、人間の“謎”そのものに引き込まれていくのです。

人はなぜ浮気をするのか? そして、なぜその真相を探りたくなるのか?

『BUTTER』はその答えを、料理の香りとともに、ゆっくりと、丁寧に差し出してくれます。

トラスト探偵事務所